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2007年10月29日

琉球とは…

琉球とは一体何なのでしょうか。
いろんな発見があってびっくりしました。


「琉球」とは中国から与えられた呼称で、かつては台湾島を小琉球、沖縄島を大琉球と呼んでいたが、「溜求」などの表記もあり史書などでも両者が混同される事が多かった。明・清の時代あたりから台湾島は台湾と呼ばれるようになり小琉球という呼び名はあまりされなくなった。

日本では8世紀から「阿児奈波(おきなわ)」(『唐大和上東征伝』)として知られていた。「沖縄」の当て字は、新井白石が『南島伝』(1719)で「沖縄」と書いたのが最初である。

沖縄本島では、三山時代といわれる有力者の抗争を経て15世紀中頃に国家の統一を果たし、中国(明)皇帝の認証を得て、自らを琉球国と公称する独立国となった(琉球王国)。この呼称は1429年(応永32)から1879年(明治12)までの約450年用いられた。朝鮮・中国・日本・東南アジア諸国・スペイン等の国との中継貿易によって栄えた。琉球王国は建国の経緯から明(のちに清)を宗主国としていたが、1609年に薩摩藩の侵略を受けて日中両属となった後、1872?79年にかけての琉球処分により、完全に日本に併合された。なお、明治政府の琉球の日本編入政策は、琉球処分に先立って明治維新時に国家としての琉球国を名目上は廃止し、琉球国を令制国として新設し、1871年には鹿児島県に編入している。

しかし、その後も「琉球」は奄美諸島から波照間の先島にかけての南西諸島を中心とする島嶼群の総称(琉球弧とも呼ばれる)として使用され続け、第二次大戦後、アメリカは上記の歴史的経緯と政治的理由から、沖縄県を中心とする旧琉球王国領を日本とは分離し、琉球政府を置いて軍政をしいた。アメリカ側には一時期、「琉球国」として日本からの分離独立を目指す意図もみられたが、県民の強い意向により、1953年に奄美諸島、次いで1972年に残る全域が「沖縄県」として日本帰属を回復し、現在に至っている。

以上の経緯を持つ「琉球」の呼称は、現在も広く沖縄の人々に親しまれ、使われている。

台湾の中華民国政府は、1972年(昭和47)5月15日の沖縄返還が、日米間の取り決めだけで進められた経緯に不満を持ち、日本への沖縄の最終的帰属を正式に認めず、「琉球」の表記を使用し続けており、沖縄知事から台湾に宛てられる公文書には現在も「琉球」の自称が続けられている


引用:『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年10月04日

銭湯って素晴らしいところですよね

銭湯(せんとう)は料金を支払って入浴できるようにした施設。公衆浴場の一種。

法律上は、公衆浴場として、次の定義がされている。

「公衆浴場法」第1条の規定
この法律で「公衆浴場」とは、温湯、潮湯又は温泉その他を使用して、公衆を入浴させる施設をいう。

「公衆浴場の確保のための特別措置に関する法律」第2条の規定
この法律で「公衆浴場」とは、公衆浴場法(昭和二十三年法律第百三十九号)第一条第一項に規定する公衆浴場であつて、物価統制令(昭和二十一年勅令第百十八号)第四条の規定に基づき入浴料金が定められるものをいう。

さらに、各都道府県の条例で、「普通公衆浴場」(おおよそ「日常生活における保健衛生上必要な入浴のために設けられた公衆浴場」と定義される)と「その他の公衆浴場」(自治体によっては「特殊公衆浴場」とも呼ぶ)に分けられており、「普通公衆浴場」を一般に「銭湯」と呼ぶ。

なお、入浴料金は物価統制令(現憲法発布前に出された勅令。法律としての効力を持つ)の規定により、各都道府県知事の決定で上限が定められている。そのため都道府県ごとで料金が違う。

では次に銭湯の歴史について説明します。

柘榴口つき銭湯平安時代末、京に現在でいう銭湯のようなものが現れた。

江戸における最初の銭湯は、天正19年(1591年)江戸城内の銭瓶橋の近くに伊勢与一が開業した蒸気浴によるものであった。

現在の湯槽式入浴は江戸時代から始まったものである。当時は湯船の手前に石榴口(ざくろぐち)という入り口が設けられていた。また老若男女が混浴であった。浴衣のような湯あみ着を着て入浴していたとも言われている。蒸気を逃がさないために入り口は狭く、窓も設けられなかったために場内は暗く、そのために盗難や風紀を乱すような状況も発生した。寛政3年(1791年)に「男女入込禁止令」や後の天保の改革によって混浴が禁止されたが、必ずしも守られなかった。また浴場、銭湯が庶民の娯楽、社交の場として機能しており、落語が行われたこともある。特に男湯の二階には座敷が設けられ、休息所として使われた。式亭三馬の『浮世風呂』などが当時の様子をよく伝えている。

なお、明治以前には、江戸では「銭湯」「湯屋(ゆうや)」と呼び、上方では「風呂屋」と呼ぶのが一般的であった。また、当時は内風呂を持てるのは大身の武家屋敷に限られ、火事の多かった江戸の防災の点から内風呂は基本的に禁止されていた。江戸末期には大店の商家でも内風呂を持つようになったものの、本格的な内風呂の普及は第二次世界大戦以降の高度成長期に下る。

明治に入ると外国への配慮から混浴は禁止されるが、銭湯そのものは都市化の進展や近代の衛生観念の向上とともに隆盛を極めた。特に戦後、本格的に都市人口が増大すると、至るところで銭湯が建築された。

現代では休業日を利用して演奏会などを開催する銭湯もまれにある。演奏者は天井の高い会場を確保でき、銭湯は集客効果も狙えるという利点がある。また、閉鎖した銭湯の内装をリノベーション化してカフェや現代美術ギャラリーに改築するなど、建築資産を活かした新しい試みもされている。